「死」に直面した日が甦った
今朝Facebookを開けると、
古事記塾塾生さんの奥様が亡くなられたという投稿があった。
お会いしたことはないけれど、写真から私と近い年齢の方とお見受けした。
お二人は昨年8月に結婚、12月に奥様は末期癌の告知を受けられた。
ご主人の投稿には、早朝自宅で容体が急変し、救急車を呼び、受け入れ先の病院が決まるまで、病院内での様子など細かに書かれていた。
25年前の出来事を思い出した。
34歳だった私は12/3の朝、6歳と5歳の子供を幼稚園のバスに乗せ
1歳になったばかりの娘を抱いて家に入ると、
右わき腹でプツッと何かが切れるような感覚があった。
両耳に汽笛のような耳鳴り、そのまま起き上がれなくなった。
いつもなら出勤しているはずの夫がまだ家にいて、大声で私の名前を呼んでいる。
「救急車を呼んで〇〇病院へ行ってもらって」
後はもう話すこともできなくなった。
後に夫は、救急車が来るまでの時間、
救急車に乗ったものの受け入れ先が決まらなくて停車したままの時間、
やっと受け入れ先の病院に着いて手術が始まるまでの時間、
それらが気が遠くなる程長かったと言っていた。
私は、話すことも目を開けることもできなくて、
自分の身体が急速に冷たくなっていくのを感じながら、
このまま死ぬのかと思っていた。
不思議なことに聴覚と脳は正常に機能していて、
先生方の会話や器具を準備する音が聞こえていた。
血圧を測っていた看護師さんが
「先生この人もうだめです!」
って言いながら走り去る足音、そのすぐ後に緊急手術が始まった。
子宮外妊娠による卵管破裂、3000cc以上の輸血を受けて私は奇跡的に助かった。
地方都市のその病院に私の血液型の血が3000ccもあったことは奇跡だと、
運の強い人だと担当医に言われた。
退院したのは12/23、
何人分もの輸血を私の身体はすぐに受け入れることができなくて、
数ヶ月はお水を飲んでもトイレに駆け込む、
食べ物の好みが変わったり、
自分の中に何人もの人がいるような感覚、
すべてが落ち着くまでに2年ほどかかった。
3週間近く留守をみていてくれた母は限界、すぐに帰ってもらい、
退院の日から子供を抱いて自転車で買い物に出ていた。
嵐のような日常にフラフラの身体で戻っていった。
サービス業で休日はもちろんほとんど家にいない夫、
半分育児ノイローゼのような日常に突然「死」が目の前にやってきた。
あまりの唐突さに冷たくなった自分の身体の中で抗う気にもならなかった。
今でも、私にとっての「死」は唐突なもの、終活にも興味はない。
期限付きでお借りした身体は、
いつお返しすることになるかわからないので、
大事にきれいにしておこうとは思っている。
「死」が終わりという意識はないけれど、
大切な人の存在が無くなることは大きな喪失感だということはたくさん経験した。
そして亡くなってからのほうが傍にいてくれるような感覚があることも知った。
次の瞬間を約束されている人はいない、
わかっていながら明日のこと、来週のこと、その先を考えながら
「今」を生かしていただこう。
毎朝「今日も生きてる!」って喜びながら。