えつこの部屋

行動して信じて待つ・・その先にあったもの

「親っていなくなるんだ・・」

今日は、父の命日。

亡くなったのは23年前の平成6年。

 

先月19日のブログに書いた私の入院。

私が入院している間、当時会社の経理を担当していた母が

休みを取って子供たちをみてくれていた。

 

そして一人残された父も、自炊しながら頑張ってくれた。

一人っ子の私には親しか頼れる人がいなかった。

 

父は、毎年12月に健康診断を受けていたけれど

この年はそれどころではないと受けなかった。

翌年12月の検査で末期の肝臓がんであることがわかった。

手術も抗がん剤治療もできないと。

「夏は越せないでしょう。」

元気そうに見える父を前に

医師の言葉を本気にできなかった。

 

父も母も私には何も言わなかったけれど、

もし去年検診を受けていれば

何か治療があったのではという思いはいつまでも消えなかった。

 

夏が過ぎるころになっても大きな変化はなく、

母は本気で別の病院へ行ってみようかと言っていた。

11月になってその日は突然やってきた。

父は立ちあがる事ができなくなった。

病院に連絡すると、ベッドの空きが出たら

すぐに入院できるように待機してほしいとのこと。

 

ところが、父は絶対に入院しないと言い張った。

這うようにしてトイレに行き、少しづつながら食事をとった。

「しばらくこのままやってみるから、一時的なことかもしれないし・・」

母のそんな言葉に、何もできない自分が情けなかった。

 

私達に実家には来ないようにと、連絡がきたのはその少し前。

オシャレだった父は、私や孫に弱った姿を見せたくなかったのだと思う。

 

それからは時折くる母からの電話で状況を知らされたが、

その声がどんどん疲れていくのがわかった。

年末になると、ほとんど眠れないのか掠れた声で

「限界かもしれない、私が倒れそう」

と初めて弱音を吐いた。

 

お正月も実家に行くことは許されず、

とうとう私は電話で父に伝えた。

「入院してほしい、お母さんはもう限界。私が代わることもできないし。」

「入院すれば二度と家へは帰れない。それでも入院しろというのか。」

しばらく沈黙の後電話は切れた。

その数日後父は入院した。

 

「多臓器不全です。会わせたい方がいれば呼んでください。」

ドラマで聞くような医師の言葉。

すっかり細くなってベッドに横たわる姿を見ても

私には「死」は遥か遠いところにあった。

上の子供たちを学校に出すと

3歳の次女を連れて毎日佐倉から都内の病院へ通った。

 

2月9日の早朝、容体急変、母も間に合わず父は息を引き取った。

遺体となって家に帰ってきた父。

明日斎場へという深夜から雪が降り始め、

東京は数十年ぶりの大雪になり、交通網は遮断された。

 

新潟県の雪深い土地で生まれ育った父、

雪に閉ざされた暮らしを嫌って早くから東京に出てきたという。

もう数日孫たちと家にいられる時間をと

雪が助けてくれたのかもしれない

なんて思った。

 

今日も雪がチラついて

重い雲の上で父が微笑んでいるような。

「親っていなくなるんだ・・」

23年前の正直な気持ち。

 

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